2008年9月13日土曜日
9月18日、今から77年前の1931年9月18日に起きた事件です。これがきっかけとなり、日中戦争となりました。以下詳細をお読み下さい。
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、中華民国の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊された。関東軍は、これを張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中華民国東北地方の占領行動に移った。実際には、爆破は関東軍の虎石台(こせきだい)独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であった。この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしたが、関東軍兵士によって立ち入りを断られた。また、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過したことからも、この爆発がとても小規模だったことが伺える。しかし、南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の戦争(紛争、事変)。関東軍はわずか5ヶ月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。中国側の呼称は九一八事変。
ELEANOR:毎年そうですが、この日、夜の外出や外食等も控えるよう領事館から通達が有ります。夜9時過ぎにサイレンが鳴り響き、とある団体等が日本式の食堂やクラブを見て歩き、日本人を見つけると、罵り、非常に危険な状態になるかららしいです。私も去年はクラブで飲んでましたが、日系企業様らは皆無。外も静かでしたが、小規模なデモ隊様が闊歩していたのは見ました。過去の事実は消せません。しかし、その時代が故の事件。私も中国に来るようになって身近に感じるようになりました。ここで、戦争が有ったんだと・・・。ちなみに、満州事変後、抗日ゲリラによる満鉄施設襲撃が激化していたが、満州国成立後の1932年9月15日、抗日ゲリラ多数が撫順炭鉱を襲い、炭鉱側には死者も出て操業が停止する事態になった。これに対し、翌9月16日、日本軍守備隊は炭鉱近くの平頂山という集落で中国人住民多数を虐殺する事件を起こした 1932年9月15日の反満抗日ゲリラ「遼寧民衆自衛軍」による、撫順炭鉱襲撃である。この背景には、満州国の建国宣言(1932年3月1日)以来活発化していた、反満抗日運動の存在がある。この襲撃で、日本側は、炭鉱所所長含む死者5名、負傷者6名、総額21万8,125円の被害を受けたと伝えられる。撫順守備隊は、襲撃事件の報復とて、平頂山集落がゲリラと通じていたとの判断の下に集落を包囲、掃討を行なった。掃討の方法は、平頂山部落の、その時部落にいたほぼ全住民(女性・子供・赤ん坊を含む)を集めて機関銃を掃射し、それでも死ななかったものを銃剣で刺し、殺害した死体には重油をかけて焼却するというものである。その後、崖をダイマイトで爆破して死体を土石の下に埋めたが、これは事件を隠蔽するためと見られている。虐殺人数については諸説があり、中国側は、発掘死体の数などを根拠に3,000人を主張している。また、守備隊の中隊長であった川上精一大尉の親族である田辺敏雄氏は、自著の中で、虐殺に参加した兵士の証言などをもとに犠牲者数400-800人と推定している。なお当時、平頂山集落の人口は約1,400人、犠牲者数600人前後とする資料もある。ジュネーヴでの国際連盟理事会では、中国側の被害者は死者700、重傷6~70、軽傷者約130名と報告されている。と、このような事が有った撫順では、老人の方々に日本人の良いイメージは有りません。
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